インドの政治家
インディラ・ガンジー 1917~1984
インドの初代首相ネール氏のひとり娘。ラジブ・ガンジーの母。
1917年11月19日、ガンジス河とヤムナー河の合流点にあるヒンドゥー教の聖地、アラハバードで誕生。 後に初代首相となるネール氏を父親にもち、ともに政治活動をしていた、「独立の父」マハトマ・ガンジー が頻繁に父ネールを訪問するなど、独立運動を目の当たりにして育ち、マハトマ・ガンジーから多大な影響を受ける。 サンチニケータン大学で学び、イギリスのオックスフォード大学に留学。 帰国後、パルシー(ゾロアスター教徒)のフェロジ・カーンとの結婚を考えるが、異教徒という理由で両親から強い反対を受ける。 そこで、フェロジ・カーンは、マハトマ・ガンジーの養子となり、フェロジ・カーンからフェロジ・ガンジーに改名し、ヒンドゥ教に改宗することで、インディラとの結婚を許された。
同じ「ガンジー」を名乗っているが、インディラ・ガンジーと、 マハトマ・ガンジーの間には、血縁関係はない。 この結婚には、マハトマ・ガンジーも大きく関与していたと思われる。 インドはもともと宗教を火種とした紛争が多く、独立の際もインド・パキスタンに分割されるなど、 宗教における対立が政治にも大きく影響している。 そのため、首相ファミリーが宗教問題で 内紛を起こしていることは、国民にもよい影響を及ぼさないと考えたからであろう。
結婚後インディラは国民会議派に属し、独立運動に参加したため1942年には、一年余りも投獄されました。 1964年、父である初代首相ネールの死後、シャストリ内閣の情報大臣に就任。 1966年シャストリ首相の急死(心臓発作)により、第3代首相に就任。 1971年、パキスタンからのバングラディッシュ独立戦争への介入に成功し、支持率はうなぎのぼりに。 しかしその後、インフレにより貧困層が増大するなどして国勢が混乱し、非常事態宣言を発動したことにより、 1977年の選挙では大敗。1980年には人気を回復し、総選挙で勝利し首相に返り咲きます。 その後、パンジャブ州を巡る対立が元で、2人のシーク教徒護衛兵により首相官邸で銃弾に倒れた。
体は小さいけれど、ものすごいパワーを持った女性でした。この時代で、女性ながら 政界で活躍するというのは、並大抵の努力や苦労ではなかったと思います。 インドの首都デリーの空港の名は「インディラガンジー空港」。
- 略歴
- 1917年 11月19日誕生
- 1960年 夫フェロジ氏と死別
- 1964年 情報大臣に就任
- 1966年 第3代首相に就任
- 1980年 第6代首相に就任
- 1984年 10月31日暗殺される
ラジブ・ガンジー 1944~1991
インディラ・ガンジーの息子。 ジャワハルラール・ネールの孫。パイロット。
イギリスのケンブリッジ大学に留学。留学中に後に妻となるソニア氏に出会う。 ソニヤ氏は1946年イタリアのトリノで労働者階級家庭に生まれました。 イタリア育ちだったためヒンディ語が話せず、インディラ・ガンジーはそれを理由に、二人の結婚に難色を示していました。 それでも、ラジブ・ガンジーはソニヤ氏と1968年にはめでたく結婚します。 インディラ・ガンジーは自身も結婚する際、両親の強い反対にあいましたが、息子も同じ道をたどるとは人生皮肉なものです。
ラジブ・ガンジーを名乗っているが、マハトマ・ガンジーとは血縁関係にはない。 母のインディラ・ガンジーの夫、フェロジがマハトマ・ガンジーの養子になったため、ガンジー姓になったといういきさつがあります。
ラジブ・ガンジーは、1980年弟、サンジャイの事故飛行機死をきっかけに、 パイロットをやめ政界の人となった。 1984年の母の死後、首相に就任。 1991年、南インドを訪問した際、歓迎の花の首飾りに仕込まれていた爆弾で爆死した。 この時、テロリストの実行犯(ラジブ氏に歓迎の首飾りをかけた人)はスリランカ女性で、 小さいが強力な爆弾を使用したため、ラジブ・ガンジーはもちろん、テロリストや周囲にいた十数人も犠牲になった。 あまりに大きな爆発だったため、彼の肉体は粉々に砕け散り、遺体はなかったそうです。
インドでは、「ネール(ガンジー)王朝」「ロイヤルファミリー」とも呼ばれているが、インド国民は このネール(ガンジー)家には特別な思いいれがある。 アメリカで言ったら、ケネディ家のようなものかもしれない。 祖父、母、息子と3代に渡って、首相を輩出するということは、おそらく他国でも 例がないのではないか。そんな輝かしい経歴を持つネール(ガンジー)家ではあるが、母も息子も暗殺によって この世を去り、弟は若くして事故死するなど、悲しい運命を背負った一族でもある。
インドでは、2004年総選挙で、国民会議派が勝利し、首相にはマンモハン・シン氏が就任した。 妻ソニア・ガンジー氏が就任を固辞したためであるが、いずれ彼女も首相になる日が来るのではないか。 また、2004年の総選挙で息子ラフル・ガンジー氏(1971年生まれ)も初当選を果たしている。
- 略歴
- 1944年 誕生
- 1968年 イタリア生まれのソニア氏と結婚
- 1984年 首相に就任
- 1991年 暗殺される
ギャニ・ジュエル・シング 1916~1994
ギャニ・ジュエル・シングは、たぐい希なる頭脳と心を兼ね備え、 最も慎ましい出自から国家の指導者にまでなった人物である。 彼は長期間にわたり活躍したため、人々が知る彼の姿は多様である。 自由の闘士、虐げられた者たちの希望の星、社会改革運動家としての彼の姿や、 国会の指導者、主席大臣、連合内務大臣など政治家として成功した彼の姿など。
実際彼は、藩王国と封建制、外国による支配に対して決して屈しない闘士であり、 自民族中心主義、経済的格差、社会的不正に対する疲れを知らぬ運動家であり、 虐げられたもの、貧しいものの真実の友であった。 彼は、長身でハンサムでいつも清潔な身なりをしており、民主主義を固く信じ、 神を敬う謙虚な人間であり、まことの大地の子(農民)であった。
ギャニ・ジュエル・シングは1916年5月5日、ファリドコット地方のサンドワン村で農民の子として生まれた。 父、サルダール・キシャン・シングは約56エーカーの土地を持ち、 彼と彼の2人の兄弟は、父の職業と土地を引き継ぐことになっていた。 彼は僻地の村の泥壁の小さな家で生まれ、庶民階級の出身で、コネや後援者とは無縁の存在だった。 衣服を縫い、砂利を砕き、畑を耕し、道を造り、井戸を掘り、あるときは刀を鍛えるという 彼の日々の暮らしは、庶民の抱える問題と願いをまさに肌で感じる生活だった。 そのため彼は、国民から「ギャニジ(ギャニさん)」と親しまれることとなった。
学生時代、彼はシィク教の聖典について熱心に学習しただけではなく、 コーラン、ギータ、ラーマヤーナについても学んでいた。 同じ年頃の友達が学習にとりかかる頃には、彼はシィク教義、シィクの歴史、シィクの聖典の学習を終了していた。 彼はヒンズー語とウルドゥ語は非常に堪能だった。彼の英語は流暢と言えるものではなかったが、 彼の存在は、強い意志と誠実さと信念をもって実行すれば、例え最も虐げられた階級に生まれても、 その努力によって必ず道は開けるという好例となった。 1931年3月23日、に起こった勇敢な運動家、バーガット・シングとその同志の殉死は、 当時まだ16歳だった若かりし日のギャニの心に衝撃を与え、その後の彼の活動に大きな影響を与えることとなった。
ギャニ・ジュエル・シングの苦難の道のりは、1938年の全インド国民会議ファリドコット州支部の開設から始まった。 マハラジャ(藩王)は国民会議支部の開設を藩王国への反逆と受け取り、その指導者を究極の敵と見なし、 彼は犯罪者のように扱われた。 そのため、ファリドコット州国民会議を設置したギャニジは5年もの間、刑務所の独房に投獄された。 釈放後も迫害を受け、州外に逃れたこともあった。 この時期に彼は、マハトマ・ガンジーの称える非暴力主義に多大な影響を受けた。
1946年、ギャニジは自らの州に戻り、建国の父マハトマ・ガンジーの起こした運動方針に沿って自由への闘争を再開した。 ファリドコット州全土の民が国旗掲揚問題で立ち上がった。 このことを知った、ジャワハルラール・ネールは、 彼を支援するためにファリドコットを訪れた。 このことがきっかけでギャニジはネールと出会い、その日以来ネールは、 その慈愛の目を若く将来のある運動家に注ぎ続けることとなった。
ファリドコット地下政府の設立は、ギャニ・ジュエル・シングの人生で最も過酷な挑戦であった。 彼は藩王政府に対する反乱の首謀者として有罪を宣告され、監禁された。 後々語り継がれる有名な「ジープのエピソード」が起こったのはこの頃のことである。 それは藩王政と封建的な専政政治を終わらせるための、ギャニジの活動を弾圧するものだった。 ギャニジは活動をやめないと、「手足をジープにくくりつけて街中を引きずり回すぞ」と脅されたのだ。 彼はどんな脅迫にも屈しなかった。 ファリドコット州がパティアラ及び東パンジャーブ州連合に加わったとき、 ギャニ・ジュエル・シングは農業財務大臣として、 農場労働者、小農、小作農の社会的経済的不利益をなくすために改革を行った。 実際の耕作者に所有権を与え、不在地主制を廃止し、「土地所有限度法」によって 余った農地に対する小作人への分配権を保障する法的措置も、すべてギャニジの功績である。 パティアラ及び東パンジャーブ州連合において、小作人に農地を与えたことは、 今日でもインド独立後の農地改革の歴史的偉業と言える。
1956年11月1日、パティアラ及び東パンジャーブ州連合がパンジャーブと合併したことで農民、 労働者、庶民の暮らしに新しい風が吹き込まれた。 この年、ギャニ・ジュエル・シングはインド上院議員となり、パンジャーブ地域国民会議委員会の上席副会長となった。 そして1962年のパンジャーブ立法会議(州上院)及び人民会議(州下院)総選挙において、 国民会議に確実に大勝利をもたらすべく無心無欲で奮闘を続けた。 この年、彼は故サーダー・プラタップ・シング・カイロンが率いる政府の閣僚に加えられたが、 中国の侵攻を契機に辞職した。
1962年から1972年にかけて、ギャニ・ジュエル・シングはパンジャーブにおいて10年もの間、自民族中心主義と、 搾取の勢力に対抗し徹底的に闘った。 パンジャーブ地方国民会議委員会の会長として、国民会議一般党員に強く働きかけ、 劣勢であったにもかかわらず1971年の州人民会議選挙と1972年のパンジャーブ立法会議選挙において、 国民会議に大勝利をもたらした。 1972年3月、ギャニジはパンジャーブ国民会議立法党の全会一致によりパンジャーブ州主大臣として選出された。 前例のない5年と3ヶ月の期間大臣を務め、州の緑化と工業化を推進し、 すべての宗教宗派に属する人々の一体化を図り、脱宗教主義 (「宗教原理主義≒宗教によって社会の秩序を保持しようとする思想」からの脱却)を強化した。
彼の大胆な指導の下、パンジャーブは繁栄、安定、活力、統一と団結を得たのである。 ギャニジは、 インディラ・ガンジー のリーダーシップに触発され、 パンジャビ人がよりよい生活にかける夢を実現できるように夢中で働いたのである。 1977年の中頃、中央政府とパンジャーブを含むいくつかの州政府に連立政権化の波が到来したことにより、 ギャニ・ジュエル・シングは新たな困難と迫害に立ち向かわなくてはならなくなった。 試練と苦難の間も、彼は意気高くまた一般庶民への愛を失うこともなかった。
1980年1月ギャニジはパンジャーブ州ホシヤールプール選挙区から、対立候補に1,250,00票の大差をつけて第7次人民会議議員に選ばれ、 インディラ・ガンジー政権の下、インド政府内務大臣となった。 連合内務大臣として、ギャニ・ジュエル・シングは法と正義を保ち、アッサムの政情改善に奔走し、 国内の騒乱に対しては断固たる態度で対処するなど、目覚ましい貢献をした。 彼はパティアラ及び東パンジャーブ州連合とパンジャーブ州の主大臣としての30年以上に及ぶ豊富な行政経験を フルに活用し、今日インドが直面するほぼすべての主要な問題に取り組んだ。 その中でも最も印象的なのは、アッサム危機における彼の役割であろう。 彼は持てる手腕のすべてを投じ、扇動首謀者たちとの直接交渉の場をもつまでに至った。 交渉中には危機的な状況もあったが、彼はその素晴らしい人格をもって、 最終的には合意にまでこぎつけたのである。 また、内大臣として国家の様々な問題に対応し、彼はその能力を惜しむことなく発揮し、問題解決に全力を尽くした。 彼は国民の一体感を強化し、すべての暴力圧制にねばり強く取り組んだのである。
ギャニ・ジュエル・シングは1982年7月15日、国家の最高責任者である大統領に選出され、1982年7月25日に就任宣言を行った。 彼は誠実なこと、相手の立場を思いやることが 人としてとても重要であると考えていた。 しかしながら、政治や政策のうえでは、決して妥協することはなかった。 彼は、その洗練されたユーモアのセンスで、インドのすべての子どもたちと苦しみにあえぐ人々の 生活を明るいものにした。 そしてそのユーモアこそ、彼を公務の緊張と過酷さから彼自身をも救っていたのである。
- 略歴
- 1916年 5月5日サンドワン村で誕生
- 1956年 インド上院議員就任
- 1972年 パンジャーブ州主大臣就任
- 1980年 インド政府内務大臣就任
- 1982年 大統領就任
- 1987年 大統領解任
- 1994年 没
ジャワハルラール・ネール 1889~1964
インド独立後の初代首相。国民会議書記長。 インディラ・ガンジーの父、ラジブ・ガンジーの祖父。
1889年11月14日、インド北部、ウッタルパルデーシュ州のアラハバードで 裕福なバラモン教の弁護士家庭、父モティラル、母サブルプラニのもとに誕生した。 両親はとても教育熱心で、幼少の頃から彼に家庭教師をつけた。 16歳の時、父と一緒に渡英し、イギリスのケンブリッジ大学に留学した。 1912年、23歳の時、イギリスで弁護士資格を取得後、帰国する。 マハトマ・ガンジー氏とは、1916年ラクナウで初めて出会いました。
1916年、カムラと結婚。 1917年11月19日にひとり娘のインディラが誕生。 帰国後、数年間弁護士の仕事をした後に、国民会議に属し、 1919年、出生の地アラハバードで長官になり、 マハトマ・ガンジーとともに独立運動のリーダーとなる。 1920年~1922年の間国家に反逆したとして、2回も投獄されました。 1940年戦争に抗議したことを理由に投獄される。 1941年に他のリーダーとともに釈放されるが、1942年再度逮捕された。 ともかく、彼はその人生で英国政府より9回も逮捕・投獄を経験した。 1947年8月、インド独立の際に初代首相に就任。1964年まで首相を務めた。
日本の子供達にインド象をプレゼントしてくれたネール首相
上野動物園では、戦争中に空襲で動物が町へ逃げ出す危険の防止や、 食料事情を理由に日本陸軍の命令でたくさんの動物が毒殺されました。 終戦後、ネール首相に、日本の子供達から「象がほしい」という手紙が届けられ、 ネール首相は「インディラ」というメスの象を日本の子供達にプレゼントしてくれました。
日本人なら誰もが知っている「ぞうさん」の歌は、上野動物園に象のインディラが贈られた時に、 そのおひろめのために作られた歌だそうです。 もちろん、この象の名前は、ネール首相の娘「インディラ」からもらった名前です。
ネールスーツ
無地のコットンやウール素材を使用した、立ち衿(ネール・カラー)の丈が長い、前あきボタン留めジャケットの スーツをネール首相が着ていたことからそう呼ばれている。 もともとは、インドのマハラジャ(王様)が着ていたスーツが由来だが、王族のスーツは派手で豪華な刺繍が施されている場合が多い。
- 略歴
- 1889年 11月14日カシミールに生まれる
- 1905年 イギリスに留学
- 1912年 イギリスより帰国
- 1947年 独立したインドの初代首相に就任
- 1949年 象の「インディラ」を日本の子供達に贈る
- 1964年 病死